僕は日本ファンドレイジング協会(JFRA)に寄付会員兼社会貢献教育推進メンバーとして参加しています。
社会貢献教育とは何か。JFRAは「社会貢献について、子どもたちが楽しみながら考え、体験する教育プログラム」と定義しています。この事業に関わるまでのプロセスについては、JFRAのオンラインジャーナルに掲載されているので、是非ご覧下さい。
社会貢献教育の寄付者に聞いてみた、私が寄付をする理由―藤岡浩志さん編―
高校時代から「若い世代のエンパワメントこそが世界を変える原動力になる」と信じて、様々なプロジェクトに取り組んできました。一時期は音楽祭プロデュースに学生を参画させるという形でアクティブラーニングを行っていましたが、現在は、藤岡ゼミ、国際協力、英語ラリー(時事問題について英語で議論する教育プログラム)がその役割を担っています。
この3つの中でメインとなっているのが藤岡ゼミです。2017年5月にスタートし、2020年12月に活動を停止。その後、リニューアルを行い、医療関連の社会課題に特化して歩みを進めることになりました。信州大学の学生団体であるCHANGEと連携しながら、受動喫煙問題を解決するためにリサーチや関連コミュニティへのアプローチを実施しています。
上記の活動は全て社会貢献教育だと僕は思っています。「子どもたちや若者の才能が開花することで、世界はもっと面白くなる(日本面白すぎる!と言われる)」というビジョンを掲げて形にしてきたことが、実は社会貢献教育そのものだった。このことに気づいたとき、自分の生き方に自信を持つと同時に、これから為すべきことがクリアになっていくのを感じました。
今は、新たなプロジェクト(世界の未来について真剣に考えた上でアクションを起こす機会を若者たちに提供する)を構想中です。東京オリンピックで露呈した「国際的視点を軽視した内輪の論理」に安住したままでは、地球規模の問題を解決することはできません。視点を増やしながら世界について考えることで自分を相対化する。まずは、ここから始めたいと思います。
2021-12-16
2021-08-27
英語との付き合い方
中高生と話しているとき、「英語ができるようにならない」という声をよく聞きます。それに対するアドバイスは「インプットとアウトプットを繰り返す」ことくらいしかないのですが、それだけでは面白くないので、僕の言語に対する考え方も伝えるようにしています。
以下はその内容です。
単語帳や長文に取り組むときには必ず一度は音読します(自習室や図書館の場合、周りから冷たい視線が送られるので、声に出すときは自宅で)。発音については、オンライン辞書やスマートフォンの辞書アプリで確認すると良いでしょう。その際、聴いたらすぐ復唱することがポイント。また、インプットしたら必ずアウトプットします。つまり、覚えた単語、熟語、フレーズを使い、伝えたい内容を英語で表現するということです(ノートに書く、SNSで発信する、声に出す、など)。
同時に、軽い気持ちで英語に親しむ機会を創ると良いです(本、漫画、動画、など)。例えば、英語の絵本であれば、絵からどんなことを言っているのか想像できるので、多少分からない単語があっても読み進めることができます(あくまで「親しむ」ことが目的なので、この場合は厳密に訳す必要はありません)。
最後に、僕の「英語との付き合い」について。
中学生のとき、映画「Back To The Future」を見たことを機に、英語とアメリカについて学ぶようになりました(それ以前に、親の影響でたまにビートルズを聴いていましたが、これは特に英語への関心にはつながっていません)。
大学入学後、留学生と一緒に国際交流イベントをプロデュースしたことがきっかけとなり、英語やアメリカの枠を超えて、世界の動きを気にするようになりました(この頃にはインターネットの商用利用が急速に進み、世界をつないで情報収集やコミュニケーションがスピーディーに行われるようになったことも大きく影響しています)。
大学卒業後は、海外メディアのオンライン記事をチェックするようになったのですが、英会話の機会は多いとは言えないので、何らかの形で増やしていきたいと思っています。また、海外旅行については、「英語を使いたい」という理由でシンガポールによく行きます(他にも、「多文化共生について研究する」という目的があります)。
英語は世界を面白がるためのツール。まさに、僕の人生を支えてくれる心強い味方ということで、これからも積極的に活用していきたいと思います。
以下はその内容です。
人類は二人以上で生活するようになったときにコミュニケーションの手段として「声」「ジェスチャー」といった音や動きを使うようになったのではないかと思う。さらに、音の組み合わせにより様々な単語が生まれ、それらをつなぎ合わせることで複雑な表現が可能になった。
その後、「文字」という機能が言語システムに追加された。つまり、「読む」「書く」の歴史は「聞く」「話す」に比べて短いということである。しかも、言語は「音」を主体としたコミュニケーションツールであることを考えると、言語習得にとってまず大事なのは「聞く」「話す」ということになる。
このことを踏まえると、言語習得のためには単語帳を見て書くだけでは不十分であり、人類にとって自然な行為である「聞く」「話す」ということに日常的に取り組む必要がある。
ここで、僕なりの勉強方法を共有しておきます。その後、「文字」という機能が言語システムに追加された。つまり、「読む」「書く」の歴史は「聞く」「話す」に比べて短いということである。しかも、言語は「音」を主体としたコミュニケーションツールであることを考えると、言語習得にとってまず大事なのは「聞く」「話す」ということになる。
このことを踏まえると、言語習得のためには単語帳を見て書くだけでは不十分であり、人類にとって自然な行為である「聞く」「話す」ということに日常的に取り組む必要がある。
単語帳や長文に取り組むときには必ず一度は音読します(自習室や図書館の場合、周りから冷たい視線が送られるので、声に出すときは自宅で)。発音については、オンライン辞書やスマートフォンの辞書アプリで確認すると良いでしょう。その際、聴いたらすぐ復唱することがポイント。また、インプットしたら必ずアウトプットします。つまり、覚えた単語、熟語、フレーズを使い、伝えたい内容を英語で表現するということです(ノートに書く、SNSで発信する、声に出す、など)。
同時に、軽い気持ちで英語に親しむ機会を創ると良いです(本、漫画、動画、など)。例えば、英語の絵本であれば、絵からどんなことを言っているのか想像できるので、多少分からない単語があっても読み進めることができます(あくまで「親しむ」ことが目的なので、この場合は厳密に訳す必要はありません)。
最後に、僕の「英語との付き合い」について。
中学生のとき、映画「Back To The Future」を見たことを機に、英語とアメリカについて学ぶようになりました(それ以前に、親の影響でたまにビートルズを聴いていましたが、これは特に英語への関心にはつながっていません)。
大学入学後、留学生と一緒に国際交流イベントをプロデュースしたことがきっかけとなり、英語やアメリカの枠を超えて、世界の動きを気にするようになりました(この頃にはインターネットの商用利用が急速に進み、世界をつないで情報収集やコミュニケーションがスピーディーに行われるようになったことも大きく影響しています)。
大学卒業後は、海外メディアのオンライン記事をチェックするようになったのですが、英会話の機会は多いとは言えないので、何らかの形で増やしていきたいと思っています。また、海外旅行については、「英語を使いたい」という理由でシンガポールによく行きます(他にも、「多文化共生について研究する」という目的があります)。
英語は世界を面白がるためのツール。まさに、僕の人生を支えてくれる心強い味方ということで、これからも積極的に活用していきたいと思います。
2020-11-07
面白い人生を創る
仕事柄、高校生から進路相談を持ちかけられることが多いのですが、そのたびに、10代で明確な進路を定めることの難しさを痛感します。僕自身も彼らと同じように悩み、時には遠回りしながら自分の人生を創り上げてきました。今回は、その軌跡を振り返りながら、「面白い人生を創る」というテーマで話を進めていきたいと思います。
僕は小学生のときから教師という存在をあまり信用しないという、かなりひねくれた人間でした。それだけでなく、まわりの学童たちが作り出す過剰な同調圧力にも違和感を抱いていました。大人たちから見れば、扱いにくい子どもだったように思います。基本的にそういうスタンスなので、勉学については大人を頼らず自分で責任を持って進めていました。
義務教育がもうすぐ終了というとき、進路選択の問題が浮上しましたが、これについては特に悩んだ記憶がありません。学ぶことは大好きだったので自然と成績は上位へ。「学びの世界を広げたい」という気持ちが湧いてきたため、松本深志高校に進学することに決めました(父が同校出身者ということもあり、僕にとっては身近な学校という認識でした)。
高校時代は中学とは比べものにならない高度な内容と予想以上に速い授業進度に戸惑いながらも、英語や数学を中心に面白さを感じながら学んでいました。先生方や学生たちは中学とは違って多種多様で強烈な個性があり、つい議論を挑みたくなるような一筋縄ではいかない人たちばかり。きっとこれが松本深志高校が長い年月をかけて継承してきたユニークな校風なのではないかと思います。
このように、高校生活は刺激溢れるものでしたが、唯一進路選択だけはもどかしさがありました。入学した時点で大学進学以外の選択肢が考えられない空気があり、それに違和感を抱いたことも。今思うと、これは単なる思い込みで、その気になれば別の道を選ぶこともできました(広い視野で物事を見ようとしなかった自分の責任です)。その後、紆余曲折を経ながらも、生涯をかけて取り組みたいことが見つかったので、人生どうなるか分からないというのが正直なところです。
ここで、どんなプロセスを経てきたか、具体的に述べてみます。
高校1年のときは、ロボットに関心があったので東京工業大学への進学を考えていました(当時ロボットコンテストで異彩を放っていたのが、この大学だったのです)。
高校2年の終わり頃、物理と化学への興味が薄れてしまったため、学問内容の再検討を余儀なくされることに。そんなとき、部活動で「後輩を成長させることがチームビルディングのカギ」ということに面白さを感じていたので、そこに数学への思いが結びつき、新たに「数学教育」という道が目の前に現れました。
最終的に数学教育が学べる大学を受験し合格。しかし、ここで迷いが生じます。4年間数学に没頭するのではなく、自分はどちらかというと教育そのもの、特に教育心理学や臨床心理学について学びたいという気持ちに気づいてしまいました。これを受けて、1年後再受験し、東北大学教育学部に進学することが決まりました。
大学入学後もいろいろありました。臨床心理学については大学の前半で諸事情により断念し、教育心理学や認知心理学に傾倒するようになります。また、インターネットの商用利用が活発化したという時勢を踏まえ、デジタルメディアデザインへの関心も高まりました。「この技術が発達し普及すれば、世界中のより多くの人に教育や相談の機会を提供することができる」と思い、ものすごくわくわくしたことを覚えています。
この思いがモチベーションとなり、大学の後半は「教育とデジタルテクノロジー」というテーマで研究を進めました(この活動は現在も継続中です)。音楽好きが高じて、音楽祭プロデュースにも取り組むようになりましたが、ここにも「次世代の育成」「デジタルメディアを活用したPR戦略やコミュニケーション」といった形で大学時代の研究が活かされています。
この経験を踏まえて、僕はあることを実現したいと思うようになりました。それは「子どもたちや若者の才能が開花することで、世界はもっと面白くなる(日本面白すぎる!と言われる)」というビジョンです。世界では連日悲しいことが起きていますが、このような状況でも、多くの子どもたちや若者の爆発的パワーを解放することができれば、沢山の笑顔が生まれ明るい未来を創ることができると信じています。
もちろん、彼らに未来を丸投げするわけではありません。むしろ協働して面白いことを創りたい。これが僕の素直な思いです(これを書いている時点で、ものすごくわくわくしています)。ぜひ僕にやりたいことや悩みを話して下さい。少しでも良い方向に行くように、一緒に考えアクションにつなげていきます。発信と行動。これが面白い人生を創る秘訣です。
僕は小学生のときから教師という存在をあまり信用しないという、かなりひねくれた人間でした。それだけでなく、まわりの学童たちが作り出す過剰な同調圧力にも違和感を抱いていました。大人たちから見れば、扱いにくい子どもだったように思います。基本的にそういうスタンスなので、勉学については大人を頼らず自分で責任を持って進めていました。
義務教育がもうすぐ終了というとき、進路選択の問題が浮上しましたが、これについては特に悩んだ記憶がありません。学ぶことは大好きだったので自然と成績は上位へ。「学びの世界を広げたい」という気持ちが湧いてきたため、松本深志高校に進学することに決めました(父が同校出身者ということもあり、僕にとっては身近な学校という認識でした)。
高校時代は中学とは比べものにならない高度な内容と予想以上に速い授業進度に戸惑いながらも、英語や数学を中心に面白さを感じながら学んでいました。先生方や学生たちは中学とは違って多種多様で強烈な個性があり、つい議論を挑みたくなるような一筋縄ではいかない人たちばかり。きっとこれが松本深志高校が長い年月をかけて継承してきたユニークな校風なのではないかと思います。
このように、高校生活は刺激溢れるものでしたが、唯一進路選択だけはもどかしさがありました。入学した時点で大学進学以外の選択肢が考えられない空気があり、それに違和感を抱いたことも。今思うと、これは単なる思い込みで、その気になれば別の道を選ぶこともできました(広い視野で物事を見ようとしなかった自分の責任です)。その後、紆余曲折を経ながらも、生涯をかけて取り組みたいことが見つかったので、人生どうなるか分からないというのが正直なところです。
ここで、どんなプロセスを経てきたか、具体的に述べてみます。
高校1年のときは、ロボットに関心があったので東京工業大学への進学を考えていました(当時ロボットコンテストで異彩を放っていたのが、この大学だったのです)。
高校2年の終わり頃、物理と化学への興味が薄れてしまったため、学問内容の再検討を余儀なくされることに。そんなとき、部活動で「後輩を成長させることがチームビルディングのカギ」ということに面白さを感じていたので、そこに数学への思いが結びつき、新たに「数学教育」という道が目の前に現れました。
最終的に数学教育が学べる大学を受験し合格。しかし、ここで迷いが生じます。4年間数学に没頭するのではなく、自分はどちらかというと教育そのもの、特に教育心理学や臨床心理学について学びたいという気持ちに気づいてしまいました。これを受けて、1年後再受験し、東北大学教育学部に進学することが決まりました。
大学入学後もいろいろありました。臨床心理学については大学の前半で諸事情により断念し、教育心理学や認知心理学に傾倒するようになります。また、インターネットの商用利用が活発化したという時勢を踏まえ、デジタルメディアデザインへの関心も高まりました。「この技術が発達し普及すれば、世界中のより多くの人に教育や相談の機会を提供することができる」と思い、ものすごくわくわくしたことを覚えています。
この思いがモチベーションとなり、大学の後半は「教育とデジタルテクノロジー」というテーマで研究を進めました(この活動は現在も継続中です)。音楽好きが高じて、音楽祭プロデュースにも取り組むようになりましたが、ここにも「次世代の育成」「デジタルメディアを活用したPR戦略やコミュニケーション」といった形で大学時代の研究が活かされています。
この経験を踏まえて、僕はあることを実現したいと思うようになりました。それは「子どもたちや若者の才能が開花することで、世界はもっと面白くなる(日本面白すぎる!と言われる)」というビジョンです。世界では連日悲しいことが起きていますが、このような状況でも、多くの子どもたちや若者の爆発的パワーを解放することができれば、沢山の笑顔が生まれ明るい未来を創ることができると信じています。
もちろん、彼らに未来を丸投げするわけではありません。むしろ協働して面白いことを創りたい。これが僕の素直な思いです(これを書いている時点で、ものすごくわくわくしています)。ぜひ僕にやりたいことや悩みを話して下さい。少しでも良い方向に行くように、一緒に考えアクションにつなげていきます。発信と行動。これが面白い人生を創る秘訣です。
2019-11-02
日本と台湾
今年の8月に初めて台湾を訪問しました。中国との緊張関係が続いていますが、その一方で、親日派が多いことで有名な地域です。そのことを現地で体感しながら、台湾の未来や日台友好のあり方について考えてみたい。これが今回の研究テーマです。
台北市内に日本統治に関する資料館があり、そこで1946年1月1日に台湾で創刊された新聞「人民導報」の記事を読みました。印象的だったのは「本紙は、若者たちに対する教育(中華民国の国民が持つべき価値観を教える)と居留する日本人たち(当時、約40万人)に対する教育(帝国主義及び軍国主義からの脱却)を目的として創刊された」という内容。
人民導報は日本語で書かれていました。これについては、50年間、日本化政策の一環として日本語による教育が行われていたので、「しばらくは日本語を使いながら、少しずつ中国語による生活に移行させる」という意図があったのではないかと思います。もし、反日感情が強ければ、日本軍や居留する日本人はすぐに追い出されていたはずですが(報復を受ける可能性もあった)、人民導報創刊時のメッセージを見ると、台湾人だけでなく、居留する日本人の未来まで考えていたことが分かります。
日本統治時代は農地改革、公衆衛生の改善、インフラの整備に加えて、教育が充実していました。日本化を目的としたものではありましたが、高等教育も受けられるシステムだったので、その中でリーダーが多く育ちました(その後、彼らは台湾の民主化と経済発展の中心的な存在となります)。
こういった人たちのおかげで、日本と台湾は今でも友好関係を築けているのではないかと思います。つまり、彼らは、台湾全体で「日本統治時代の良い部分と悪い部分、両方踏まえた上で、台湾の未来や日本との関係について考えよう」というスタンスを共有してきたということ(蔡英文総統もこのような趣旨の発言をしています)。おそらく、これが親日感情の源泉ではないかと思います。
空港からホテルに案内してくれたガイドさん(20代の男性)とも20分ほどお話しさせてもらいました。高校生のときに日本語を学び始め、大学でも日本語を専攻。「日本統治のことは学校で学んだが、若い人たちは細かいことまでは知らないのではないか」とのこと。「毎年日本を訪問している(東京、大阪、名古屋、など)。今度は仙台に行きたい」と言っていたので、「震災、復興、未来について、仙台の人たち(特に若者たち)と是非語り合って下さい」と伝えておきました。
その後もSNSでメッセージをやりとりする中で、政治の話題も出てきました。来年1月に総統選を控えている台湾。メディアでは「現職の蔡英文氏(台湾独立派)が優勢」と伝えており、中でも若い世代からの支持が厚いとのこと。ガイドさんも同じ思いを持っており、「香港のようにはなりたくない」と言っていたのが印象的でした。
10月にも台湾を訪れ、興味の赴くままに散策してみました。前回を含め、街を歩きながら現地の人たちと話す中で、「民間レベルの交流において、台湾は世界の中で最も日本に近い場所」ということを実感。日本語、英語、台湾華語(台湾で話されている中国語)を交えた、細かいことを気にしないコミュニケーションスタイルにも面白さを覚えました。
このアクションをきっかけとして、台湾は僕にとって身近な場所になりました。そんな台湾には、これからも日本の良きパートナーであってほしいと思っています。そのために、僕にできることは何か。それは、プロデューサーとして両国間の交流を促進すること。その中でも、特に若者たちによるインタクラションが日台関係を発展させる原動力になると信じています。
台北市内に日本統治に関する資料館があり、そこで1946年1月1日に台湾で創刊された新聞「人民導報」の記事を読みました。印象的だったのは「本紙は、若者たちに対する教育(中華民国の国民が持つべき価値観を教える)と居留する日本人たち(当時、約40万人)に対する教育(帝国主義及び軍国主義からの脱却)を目的として創刊された」という内容。
人民導報は日本語で書かれていました。これについては、50年間、日本化政策の一環として日本語による教育が行われていたので、「しばらくは日本語を使いながら、少しずつ中国語による生活に移行させる」という意図があったのではないかと思います。もし、反日感情が強ければ、日本軍や居留する日本人はすぐに追い出されていたはずですが(報復を受ける可能性もあった)、人民導報創刊時のメッセージを見ると、台湾人だけでなく、居留する日本人の未来まで考えていたことが分かります。
日本統治時代は農地改革、公衆衛生の改善、インフラの整備に加えて、教育が充実していました。日本化を目的としたものではありましたが、高等教育も受けられるシステムだったので、その中でリーダーが多く育ちました(その後、彼らは台湾の民主化と経済発展の中心的な存在となります)。
こういった人たちのおかげで、日本と台湾は今でも友好関係を築けているのではないかと思います。つまり、彼らは、台湾全体で「日本統治時代の良い部分と悪い部分、両方踏まえた上で、台湾の未来や日本との関係について考えよう」というスタンスを共有してきたということ(蔡英文総統もこのような趣旨の発言をしています)。おそらく、これが親日感情の源泉ではないかと思います。
空港からホテルに案内してくれたガイドさん(20代の男性)とも20分ほどお話しさせてもらいました。高校生のときに日本語を学び始め、大学でも日本語を専攻。「日本統治のことは学校で学んだが、若い人たちは細かいことまでは知らないのではないか」とのこと。「毎年日本を訪問している(東京、大阪、名古屋、など)。今度は仙台に行きたい」と言っていたので、「震災、復興、未来について、仙台の人たち(特に若者たち)と是非語り合って下さい」と伝えておきました。
その後もSNSでメッセージをやりとりする中で、政治の話題も出てきました。来年1月に総統選を控えている台湾。メディアでは「現職の蔡英文氏(台湾独立派)が優勢」と伝えており、中でも若い世代からの支持が厚いとのこと。ガイドさんも同じ思いを持っており、「香港のようにはなりたくない」と言っていたのが印象的でした。
10月にも台湾を訪れ、興味の赴くままに散策してみました。前回を含め、街を歩きながら現地の人たちと話す中で、「民間レベルの交流において、台湾は世界の中で最も日本に近い場所」ということを実感。日本語、英語、台湾華語(台湾で話されている中国語)を交えた、細かいことを気にしないコミュニケーションスタイルにも面白さを覚えました。
このアクションをきっかけとして、台湾は僕にとって身近な場所になりました。そんな台湾には、これからも日本の良きパートナーであってほしいと思っています。そのために、僕にできることは何か。それは、プロデューサーとして両国間の交流を促進すること。その中でも、特に若者たちによるインタクラションが日台関係を発展させる原動力になると信じています。
2018-02-21
カフェのある生活
僕はカフェが好きで仕方ありません。
居酒屋やバーで一人酒をするのが好きな人と同じような感覚で、よく一人でカフェに滞在しています。思索に耽る、読書をする、アイデアを書き留める、など。もちろん、誰かと話をすることもあります。特に、未来のことや世界に溢れている様々な問題について議論するのが一番好きです。
フランスにはカフェが多数あり、昔は芸術家、作家、革命家などが集まり情報共有や議論が盛んに行われていましたが、今はその役割を終え、市民の憩いの場として親しまれているようです。僕も是非この空間を体感してみたいと思っています。
最近は、スターバックスやタリーズのようなアメリカ系のカフェが日本に進出しており、僕もそのヘビーユーザーです。注文するのは専らアメリカーノ。夏にアイスティーやアイスコーヒーを頼むことはありますが、それ以外はほとんどアメリカーノです。多分、これが一番僕の生活リズムに合っているんでしょう。
日本ならではのカフェも行きます。所謂「喫茶店」と呼ばれるようなところです。マスターが長年かけて作り上げてきた落ち着く空間が何とも言えません。最近は若い世代が独自の感性で創ったカフェもあるので、これもまた違った魅力があり、その場にいるだけで楽しい気持ちになります。
街中にあるカフェだけでなく、森の中にあるカフェもよく行きます。安曇野に穂高有明というエリアがありますが、ここにはカフェ、美術館、ペンション、などが集まっています。観光目的の方が多く見られますが、街中の喧騒から離れて心穏やかに過ごしたいと思う人にとっては、ちょっとした隠れ家的な場所と言って良いかもしれません。
街中のカフェで議論や人間観察をする。森の中のカフェで静かに思索に耽る。どちらも僕の人生にとってなくてはならないものです。これからもカフェのある生活を楽しみ、面白い人生を創っていこうと思います。
居酒屋やバーで一人酒をするのが好きな人と同じような感覚で、よく一人でカフェに滞在しています。思索に耽る、読書をする、アイデアを書き留める、など。もちろん、誰かと話をすることもあります。特に、未来のことや世界に溢れている様々な問題について議論するのが一番好きです。
フランスにはカフェが多数あり、昔は芸術家、作家、革命家などが集まり情報共有や議論が盛んに行われていましたが、今はその役割を終え、市民の憩いの場として親しまれているようです。僕も是非この空間を体感してみたいと思っています。
最近は、スターバックスやタリーズのようなアメリカ系のカフェが日本に進出しており、僕もそのヘビーユーザーです。注文するのは専らアメリカーノ。夏にアイスティーやアイスコーヒーを頼むことはありますが、それ以外はほとんどアメリカーノです。多分、これが一番僕の生活リズムに合っているんでしょう。
日本ならではのカフェも行きます。所謂「喫茶店」と呼ばれるようなところです。マスターが長年かけて作り上げてきた落ち着く空間が何とも言えません。最近は若い世代が独自の感性で創ったカフェもあるので、これもまた違った魅力があり、その場にいるだけで楽しい気持ちになります。
街中にあるカフェだけでなく、森の中にあるカフェもよく行きます。安曇野に穂高有明というエリアがありますが、ここにはカフェ、美術館、ペンション、などが集まっています。観光目的の方が多く見られますが、街中の喧騒から離れて心穏やかに過ごしたいと思う人にとっては、ちょっとした隠れ家的な場所と言って良いかもしれません。
街中のカフェで議論や人間観察をする。森の中のカフェで静かに思索に耽る。どちらも僕の人生にとってなくてはならないものです。これからもカフェのある生活を楽しみ、面白い人生を創っていこうと思います。
2017-10-01
藤岡ゼミ
今夏、藤岡ゼミというリサーチグループを設立しました。
目的は以下の通りです。
運営において重視しているのは「学生と若手社会人が主役である」ということ。彼ら自身が提案することに意味があります。自分の行動によって社会が良い方向に変わる。このような体験を積み重ねることで、自らの可能性に対して自信を持つことができます。
もう一つ大事なのは「チームで取り組む」ということ。各自が強みを活かし、動きながら考える。テクノロジーを用いて、コミュニケーションを充実させる。随時、創出したアイデアを基に改善しながら思いを形にしていく。このスタイルを実践することで、参加者にコラボレーションの面白さを体感してもらいます。
意見交換をするだけでなく、チームを結成して行動を起こし、必要に応じて修正しながらビジョンの実現に向かって前進する。この重要性を多くの学生と若手社会人に伝えていきます。
目的は以下の通りです。
少子高齢化やテクノロジーの発展などにより、世界は目まぐるしく変化している。そのような先が不透明な時代において必要とされるのは、常に学び、多種多様な人々と協働して問題を解決する力である。それを向上させるきっかけの一つとして、長野県の社会課題について情報共有を行い、その解決策を考え提案する機会を提供する。
具体的には、長野県の社会課題に関する研究及び参加者による問題意識の共有を前提として議論し、解決策を考え、提案を作成します(地方議会に請願・陳情という形で提出する予定)。運営において重視しているのは「学生と若手社会人が主役である」ということ。彼ら自身が提案することに意味があります。自分の行動によって社会が良い方向に変わる。このような体験を積み重ねることで、自らの可能性に対して自信を持つことができます。
もう一つ大事なのは「チームで取り組む」ということ。各自が強みを活かし、動きながら考える。テクノロジーを用いて、コミュニケーションを充実させる。随時、創出したアイデアを基に改善しながら思いを形にしていく。このスタイルを実践することで、参加者にコラボレーションの面白さを体感してもらいます。
意見交換をするだけでなく、チームを結成して行動を起こし、必要に応じて修正しながらビジョンの実現に向かって前進する。この重要性を多くの学生と若手社会人に伝えていきます。
2016-08-31
多様性を許容できる国
興味深い国の一つであるシンガポール。その民族構成は、中華系74.3%、マレー系13.4%、インド系9.1%、その他3.2%となっており、文化的背景の異なる人々がどのように暮らしているのか、いつも気になっています。政治については賛否両論あるかと思いますが、資源のない小さな国が存続するためにはある程度やむを得ないのかもしれません。
僕自身は、大学時代に国際交流イベントをプロデュースしたことがきっかけとなり、多文化共生について考えるようになりました。最近は、海外旅行を含め、可能な限り多民族及び多国籍な環境に身を置くようにしています(プロデューサーとして参加している安曇野国際音楽フェスティバルもその一環です)。
今夏、「国とは何か」というテーマを掲げ、シンガポールを再訪しました。歴史や運営システムを学んだ後に街を歩いてみると、以前とはまた違う景色が見えてきます。「イギリスによる植民地化」「第二次世界大戦における旧日本軍の侵攻」「マレーシアからの分離独立及び経済成長優先の国家運営」という時代を経て、このユニークな国は先進国の仲間入りを果たしました。
昨年、建国の父であるリー・クアンユー元首相が逝去したということで、今回の旅はその追悼の意味も含まれています。統治手法については批判もありますが、まずは国民が生きていかねばならないということを考えれば、彼が建国時に掲げた行動指針とその成果は十分評価できるものではないかと僕は思っています。
現在も資源がないという状況に変わりはないので、他国との関係を考慮した上で人々が暮らしやすい環境(経済的安定と安全保障)を維持することが最重要課題と言えるでしょう。リー・シェンロン首相(リー・クアンユー氏の長男)による舵取りと国民の選択がどのような未来を創り出すのか、今後の動向が注目されます。
一方で、日本はどこに向かっているのか。シンガポールから帰国する途中、この問いについて考えていました。今は、テクノロジーの発展によりあらゆるものが目まぐるしく変化しています。これがさらに進めば、国と民間の間にある境界が曖昧になるだけでなく、いずれ「日本」という概念さえも大きく変わってしまうのかもしれません。
今回の旅で、僕はビジョンを描きました。それは「多様性を許容できる日本」です。幼い頃から過剰な同調圧力に対して強く違和感を抱いてきた者としては、この国はまだまだ生きづらさがあります。大きく変化する時代であることを踏まえ、今こそ新しいフェーズに進む絶好のタイミングではないでしょうか。
僕自身は、大学時代に国際交流イベントをプロデュースしたことがきっかけとなり、多文化共生について考えるようになりました。最近は、海外旅行を含め、可能な限り多民族及び多国籍な環境に身を置くようにしています(プロデューサーとして参加している安曇野国際音楽フェスティバルもその一環です)。
今夏、「国とは何か」というテーマを掲げ、シンガポールを再訪しました。歴史や運営システムを学んだ後に街を歩いてみると、以前とはまた違う景色が見えてきます。「イギリスによる植民地化」「第二次世界大戦における旧日本軍の侵攻」「マレーシアからの分離独立及び経済成長優先の国家運営」という時代を経て、このユニークな国は先進国の仲間入りを果たしました。
昨年、建国の父であるリー・クアンユー元首相が逝去したということで、今回の旅はその追悼の意味も含まれています。統治手法については批判もありますが、まずは国民が生きていかねばならないということを考えれば、彼が建国時に掲げた行動指針とその成果は十分評価できるものではないかと僕は思っています。
現在も資源がないという状況に変わりはないので、他国との関係を考慮した上で人々が暮らしやすい環境(経済的安定と安全保障)を維持することが最重要課題と言えるでしょう。リー・シェンロン首相(リー・クアンユー氏の長男)による舵取りと国民の選択がどのような未来を創り出すのか、今後の動向が注目されます。
一方で、日本はどこに向かっているのか。シンガポールから帰国する途中、この問いについて考えていました。今は、テクノロジーの発展によりあらゆるものが目まぐるしく変化しています。これがさらに進めば、国と民間の間にある境界が曖昧になるだけでなく、いずれ「日本」という概念さえも大きく変わってしまうのかもしれません。
今回の旅で、僕はビジョンを描きました。それは「多様性を許容できる日本」です。幼い頃から過剰な同調圧力に対して強く違和感を抱いてきた者としては、この国はまだまだ生きづらさがあります。大きく変化する時代であることを踏まえ、今こそ新しいフェーズに進む絶好のタイミングではないでしょうか。